ザッケローニ SAMURAI BLUE監督手記 イル ミオ ジャッポーネ“私の日本”

vol.342014.2.18 UP DATEvol.34「それぞれの立場」

長く監督の仕事をしていると、この仕事についていろいろなことを聞かれます。選手を見ていて、その選手に優秀な監督やコーチになる資質があるかどうか分かりますか?といったこともそのうちの一つです。この問いに対する答えはなかなか難しい。外から見ていて「この男に監督は務まらないだろう」と思っていた選手が指導者になって案外、うまくやっているケースがあるからです。そういう場合、おそらく現役を引退した後に自分の人間性や性格を指導者向きに変える努力を相当続けているのだろうと思います。一方、現役選手の時に「この男は監督になるだろう」と感じ、そのとおりになったのがアトレチコ・マドリードのシメオネ監督であり、この夏のワールドカップで日本が初戦で当たることになったコートジボワールのラムシ監督です。元アルゼンチン代表のシメオネは私がラツィオの監督だったころ、元フランス代表のラムシは私がインテル・ミラノの監督だったころ、それぞれチームに貢献してくれました。当時から彼らは監督向きの資質の片鱗を見せていたように思います。

では、監督向きのパーソナリティとはどういうものなのでしょうか。読者の皆さんに認識してほしいのは同じ指導の現場に立っていても監督とコーチとでは責任の大きさ、重さがまるで違うということです。監督向きの性格というものがあるとしたら、その巨大な責任に対する身の処し方にあるのではないでしょうか。チームを預かる責任の大きさ、重さから逃げずに、むしろ進んで引き受けるくらいの強さと覚悟が監督には絶対に必要です。監督になるのか、コーチにとどまるのか、その境目もどこまで責任と向き合えるかが分岐点になる気がします。

もちろん、強さと覚悟だけでは監督は務まりません。監督の仕事をしていると結果がついてこないことが頻繁に起こります。負けがこむと周囲はどんどん騒がしくなります。そういう苦境に立たされても、いや、立たされた時こそ、起きている現象を冷静に解明する態度が必要になります。監督という仕事を続けてきて確信を持って言えることの一つに、時にサッカーは結果ですべてを評価されますが、勝っていれば万事OKというのも、負けた時は何も機能しなかったというのも、どちらも間違いだということです。負け試合のはたして何パーセントが本当に自分たちの責任なのか。場合によっては相手の出来が良すぎたことが最もパーセンテージとして大きいこともあり得ます。にもかかわらず、敗因のすべてが自分たちにあると決めつけて粗探しを延々と続けていったら、せっかく持っている自分たちの良い部分まで消すことになりかねません。実際に起きていることを監督が冷静に分析できなければ立てる対策に誤りが混じり、負けはさらに続くことになります。この構造自体は世界のトップクラブでもアマチュアチームの監督でもまったく同じでしょう。勝っても負けても常に冷静に対処する。真の原因を追求する。そういう資質がないと監督になっても成功はおぼつかないでしょう。

監督を支えるコーチはどうでしょうか。アシスタント、ゴールキーパー、フィジカル、スカウティングなど、それぞれの専門分野で一級の知識と指導力を持っていなければならないことは言うまでもありません。そしてイタリアでは当たり前のことですが、コーチには黒子に徹する聡明さも必要です。監督と各部門の担当コーチはそれぞれ職掌も違えば、立場も違います。その違いについては尊重し合わなければなりません。監督の一番の仕事は決断することであり、コーチングスタッフはその決断をサポートするのが仕事。その一線はしっかりわきまえ、越えることがあってはなりません。

以前の本欄で紹介したように私には長年、苦楽をともにしてきたイタリア人のコーチングスタッフがいます。私がどこかで監督の仕事をする時、彼らは喜んで駆けつけてくれます。いつもチームを組んで仕事をするのは気心が知れているからだけではありません。一番の理由は私のサッカー観を選手に伝えるにあたって、彼らと一緒に仕事をすることが一番効率的だからです。

たとえば、味方のサイドバックがボールを持ったとします。そうなったら前のフォワードにボールをつけろ、奥まで入り込んでクロスを上げろ、というような大雑把な指導では監督業はもはや務まりません。逆に相手のサイドバックがボールを持った時、どういう形でボールを取りにいくのか。ピッチに立つ11人の選手が寸分の狂いもなく同じビジョンを共有しないと水漏れが起きてしまいます。現代のサッカーは、ミリ単位の精度で動くことが求められるといっても大げさではありません。そのために選手に伝えなければならないことも山ほどある。しかし、監督がどんなに優れたサッカー観を持っていても、それをチームに浸透させなければ意味はありません。監督が思い描くビジョンを具体的にチームに落とし込む際に、その浸透を早めてくれる存在が、監督の良き理解者としてのコーチングスタッフなのです。集まって練習する時間が少ない代表チームでは余計に短期間で効率的に監督のサッカー観を浸透させなければなりません。一見するとゴールキーパーだけを指導しているキーパーコーチにしても、攻撃のビルドアップはゴールキーパーから始まるのですから、私のサッカーの信奉者でなければ困るのです。

誤解されると困るので、付け足しておくと、監督とコーチに越えてはならない一線があるといっても、私はスタッフにイエスマンは求めていません。スタッフミーティングではむしろ各自が積極的に意見を述べることを求めます。それは選手に対しても同じです。選手の意見はコーチよりもさらに個の視点に針が振れているものです。選手100人に話を聞くと、100の異なる意見が返ってくる。まあ、それは仕方のないことです。サッカーという競技はそういうものだからです。

前にも述べたことがあると思いますが、サッカーは団体スポーツでありながら個で戦う局面が数多くあり、おのおのの判断でイニシアチブをとってプレーしなければならない場面が連続します。ある局面を想定し、周りはこういう動きをしようという練習はできても、実際の試合で誰がどこでどういう形でフリーになっているかまでは精密に予測はつきません。そこから先はボールを持っている選手がイニシアチブを取って判断するしかありません。そういう経験を数多く積めば、選手の側にも固有のサッカー観が育って不思議はありません。しかし、一方で、サッカーはやはりチームスポーツです。すべてを個々の判断に委ねると、まとまりのない、取り散らかったサッカーに落ちるリスクが生じます。チームとしての方向性、目指すべき道、望ましいプレーを定めるのも、試合の前に対戦相手との戦力差、力量差、体調、ピッチコンディションや気象条件等の情報を入れ込みながら試合を進める道筋を定めるのも、それはやはり監督の仕事でしょう。選手にはその道に則りながらアレンジが求められる局面局面で個の力を存分に発揮して欲しいと思っています。幸いにしてこの3年間でそういう関係は選手としっかり築けたと思っています。
コーチの意見を吸い上げ、選手の言い分にも耳を傾けながら、最終的にチームとしての方向性を打ち出すのが監督だとして、これまでの代表戦でコーチの進言をそのまま採用して物の見事に的中したことがあるかというと、そういう例はありません。物事を決めるにあたって、私は、じっくり考えるタイプなので新しいアイデアにすぐに飛びつくことはしませんし、コーチたちの意見を採用する時も自分の考えと擦り合わせながらアレンジし採用するのが普通だからです。コーチの進言を容れるのは、どちらかというと基本的な戦い方の部分ではなく、試合の最中に「このポジションの選手をもう少し絞らせた方がいい」「前に出した方がいい」とか、そういうレベルのものがほとんどです。

監督として多勢のスタッフを束ねるのは大変かと聞かれることがあります。どうでしょうか…性格的にそれほど苦にはなりませんね。子供のころから、サッカーをする時も、ほかのことで遊ぶ時も、何でも率先して自分が決めるタイプでした。生まれ故郷の小さなコミュニティーでサッカーリーグを作ろうというプランが持ち上がった時も私が先頭に立ってどんどん話を具体化させたものです。子供のころから、監督になったつもりでカードゲームの遊びに興じたりもしました。

現実にサッカーに打ち込むようになってからは選手の間は選手に徹し、監督がやりづらくなるようなマネはしませんでした。20歳のころから所属クラブでは常にキャプテンを任され、チームの成績が悪いとフロントの人間に「お前が監督をしっかりガイドしないからだ」と言われたりしましたから、どこか一目置かれる存在だったのでしょう。それでも監督をサポートする立場を常に取り続け、指導を受けた監督とは良好な関係を築いてきました。だから今でも当時の監督たちとはいい関係のままです。

こんなことを書くと子供のころから天性のリーダーシップがあったかのように思われるかもしれません。でも、そういう表現には違和感を覚えます。リーダーというのは自分が決めるものではないと思うからです。その人がリーダーであるかどうかは周りの人が決めるものでしょう。私はただ自分が興味を持っているもの、つまりサッカーに対して真摯に情熱を持って取り組んできただけです。リーダーになるための特別な勉強をした、というようなこともありません。そんな勉強をしてリーダーになれるとも思いません。仕事に対する責任をしっかり持つ。全員の思いを一つにまとめる。ただそれだけに没頭してきただけなのです。

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