ザッケローニ SAMURAI BLUE監督手記 イル ミオ ジャッポーネ“私の日本”

vol.352014.3.20 UP DATEvol.35「聖地」

3月5日のキリンチャレンジカップは日本代表にとって昨年11月のベルギー戦以来の試合でした。3カ月近いブランクや、週末の試合を終えて飛行機に飛び乗るような格好で帰国してきた海外組の状態を思うと、それほど多くのことを期待するのは難しいと思っていました。Jリーガーにしてもシーズンの開幕を迎えたばかりでした。結果は日本代表が4―2でニュージーランドに勝ちました。2点を奪われた後半の失速を驚いた方もいたようですが、私には17分までに4ゴールした日本の攻撃の方がむしろサプライズでした。インターナショナルレベルの試合では、そうそう起こることではありませんから。それぞれの所属チームで、それぞれのチームのやり方に従ってプレーしている選手たちが、ほとんど準備の時間がない中で見せてくれた息の合ったコンビネーション。私は常々、選手にはチーム全員でゴールに向かう姿勢の大切さや、そういう意図を持ってゲームに入ることの重要性を説いています。相手の出方をうかがいながら戦うより、最初からアグレッシブに前に出る方がいいと。ニュージーランド戦の立ち上がりは、そういう姿が十分に見られたと思います。監督としては、そういう良い状態を1分でも長く見たかった。しかし、チームのペースはそこから徐々に落ちていきました。チームとしての考え方を変え、テストマッチがトレーニングマッチになっていった気さえしました。サッカーの一般的な現象として、大量リードしたチームに流す感じが出てくるのはやむを得ないことではあります。私個人としては、そういう緩みは好きではありませんが、やはりコンディションも十分ではなかったのでしょう。

この試合では、センターバックは吉田と森重、ボランチは山口と青山で組み、トップには大迫が入りました。青山と山口は攻守に素晴らしいパフォーマンスを見せてくれました。もともとこのポジションにはFWのように突破からのシュートを期待しているわけではなく、私が望んだとおりのプレーを見せてくれました。それはチームに良いバランスをもたらすことです。大迫は最前線の仕事にウエートをつけてくれました。大迫のボールをもらう動きがつくるスペースに岡崎が何度も走り込むという形が見られたのも良かったと思います。 この後、日本代表は6月のワールドカップ本番までに、準備のための試合をいくつか予定しています。ワールドカップを戦う最終メンバーが決まり、海外組は長いシーズンを終え、国内組はJリーグの中断期間に入れば、そこからはもう臨戦態勢に突入です。事前キャンプと準備試合をフル活用しながら、ニュージーランド戦で見せた25分までの動きを90分に伸ばす作業をしていくつもりです。

チームを完成形に近づける術は知っているつもりです。日本に着任した4年前から言い続けていることですが、私は日本のサッカー文化を根底から変えるつもりはありません。日本の選手は十分にサッカーが上手ですし、現実に結果も出してきました。日本人の特長である繊細な技術をスピードに乗せて繰り出すことで、自分たちより体格が大きくフィジカルに優れた老獪な欧州勢や南米勢に打ち勝っていけると信じています。試合で勝つためにチームに浸透させなければならない要素はたくさんありますが、ここから先の日本代表に必要なのは、90分の間、継続してやり続けなければならないことがある一方で、試合の流れ見ながら緩急をつけてエネルギーを貯めることも必要、ということです。その使い分けができるかどうか。準備期間は少ないですが、向上しなければならない、本番の結果にもかかわってくる、大きなキーポイントになる気がしています。代表入りを目指す選手たちにとっては最終メンバーが確定するまでは本当に気が休まる瞬間はないのかもしれません。それを乗り越えて猛アピールしてくれたらと思います。

5日の試合は日本代表が改修前の国立競技場で戦う最後の試合になりました。日本サッカーの「聖地」と呼ばれる場所ですし、一歩、足を踏み入れただけで歴史的なゲームの数々が脳裏によみがえる方もいらっしゃるでしょう。これで閉鎖になるのは寂しい、姿が変わるのは残念、と思う方も多いのでしょう。しかし、国立競技場が改修される理由は、2020年東京五輪・パラリンピックのメーン会場になるため、というとてもポジティブなものです。単に取り壊されるわけではないのです。基本的に私はモノを大事にする人間で、携帯電話についていえば、最初に使ったものから全部持っています。歴代の携帯電話には、そのときどきのいろいろな思い出が詰まっていますが、機能が古くなれば代替わりは避けられません。スタジアムと携帯を一緒にする気はありませんが、国立は新しい未来に生まれ変わるのですから、前を向いて歩き出していいのではないでしょうか。器は変わっても、一度刻まれた記憶が色あせることはありません。個人的には国立で1試合も戦うことなく代表監督の仕事を終えていたら、本当に後悔していただろうと思いました。1試合でもやれて良かったなと試合後、心の底から思いました。それだけの重みを感じました。お客さんのためには雨が降らなければさらに良かったのですが。

イタリアのサッカーの聖地といえば、どこでしょうか。ローマには1934年のワールドカップと1990年のワールドカップの決勝の舞台となったスタジアムがそれぞれ別にありますが、私としては、やはりミラノのサンシーロを挙げたい。サンシーロにはたくさんの思い出が詰まっています。1964年、65年と連続して同一カードで死闘を繰り広げた、インテル・ミラノとアルゼンチンのインデペンディエンテのインターコンチネンタルカップ決勝。父に連れられ、サンシーロで見た記憶はいまも鮮やかです。サンシーロはまた監督として多くの修羅場をくぐった場所でもあります。私は4年間、ここを主戦場としました。ミラノダービーの壮絶さを言葉で表すのは難しいのですが、とにかく、サンシーロでやるインテルとミランとユベントスのビッグゲームは一つのトラップミスも許されない、張り詰めた空気が充満していました。

子供のころから憧れ続けた舞台に、監督として立ったことを誇りに思うかと聞かれたら、それは違う気がします。もし、誇りに思うことがあるとすれば、サンシーロに立ったことより、そこにたどりつくまでのプロセスの方だと思います。プロ選手としてのキャリアを持たない私は、子供を教えることからコーチ業を始めました。そこから一つずつ階段を上がってプロ選手を指導するようになり、セリエAの監督をやるようになりました。ウディネーゼでの3年の修行ともいえる期間を経て、ついにミランの監督になったのです。それはミランの監督にたどり着くまで、すべてのカテゴリーで私は勝者だった、ということを意味します。私に華やかなプロ選手としてのキャリアがあれば、そのプロセスの中でスキップできた段階もあったことでしょう。

古いところではミランの黄金期を築いたスウェーデン人の名将ニルス・リードホルムもそうでした。靴のセールスマンからコーチに転じ、ミランで世界チャンピオン、1994年のワールドカップで準優勝したアリゴ・サッキ、攻撃的な独自のサッカー理論で注目を集めたズデネク・ゼーマン、そして私のような「たたき上げ」は本当にイタリアでは圧倒的少数派なのです。サンシーロに立てたのは喜び、たどりつけたのは誇り。私のキャリアと自負が、そう区別させるのかもしれません。

お気に入りのスタジアムはいろいろあります。日本なら札幌も横浜も大阪も豊田も新潟も宮城も素晴らしい。それぞれに良さがあります。でも、やはり、すべてのワールドカップ予選を戦った埼玉に特別な思い入れがあります。サッカー専用で、ファンやサポーターは選手をより近くに感じ、選手は浴びるような声援の中でプレーできる。試合を自然にヒートさせてくれました。欧州で独特な雰囲気を感じさせるのはイングランドのウェンブリーやバルセロナのカンプ・ノウ、マドリードのサンチャゴ・ベルナベウでしょうか。このあたりは甲乙つけがたいですね。アムステルダム・アレーレもモダンなところが気に入っています。カンプ・ノウは10万人近い収容能力に圧倒されますし、ピッチの横幅が広く、あれほど巨大な選手のロッカールームも見たことがありません。サンチャゴ・ベルナベウはカンプよりコンパクトですが、スタンドの傾斜が急で、客席がまるで壁のように感じる。その迫力はすごい。スタンドとピッチの距離の近さも素晴らしい。ウェンブリーで戦ったことがないのは心残りの一つです。

この夏、日本が乗り込むブラジルのスタジアムは昨夏のコンフェデレーションズカップで非常にポジティブな印象を持ちました。アクセスもいいですし、ピッチコンディションも良好でロッカールームもきれいでした。ブラジルのサッカーの聖地といえば、文句なしにリオデジャネイロのマラカナンでしょう。そこで戦いたいかと聞かれれば、「もちろん」と答えます。ボールを蹴った人間なら誰しもそうだと思いますが、本当は選手として憧れのピッチに立ちたかった。それはもう不可能です。日本がブラジルの聖地に立つには、グループリーグC組を1位通過しての決勝トーナメント1回戦か、決勝で戦うか、の2通りしかありません。選手たちが頑張ってくれて、その日が来ることを監督として心待ちにしています。

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