代表チームがもたらした転機 ~キャンプ地のキーパーソン~
カレンダーが7月に変わった頃、ワールドカップ・南アフリカ大会で日本が大会中のキャンプ地にしていたジョージ市の広報担当者から、一通のリリースがメールで届いた。すべての日本代表チーム関係者が当地を後にし、ジョージ市はキャンプ地の役目を終えた、と。
6月6日にスイス合宿を経て到着して以来、決勝トーナメント進出に伴って当地を離れるまで、チームは試合が終わるたびにジョージに戻って調整を重ねた。選手が「サッカーに集中できる」と話した快適な環境は、多くの地元関係者の支援があってもたらされたものだった。
その中のキーパーソンが、キャンプ地コーディネーターのウィル・ムーディさんだ。
ウィルさんは英国レスター出身でプロの写真家だったが、4年前、家族と共にジョージに移り、当地でサッカーの指導者として活動を展開。ラグビー一色で、サッカーとはまるで無縁だったジョージの町に、新たな競技と楽しみを紹介した張本人だ。
4年の間に彼の活動は多くの地元の人々の賛同を得て、現在では自らが立ち上げて監督も務めたジョージ・ユナイテッドFCを中心に、約450人の子供たちがキッズサッカーやジュニアリーグでプレーを楽しみ、来年には500~600人規模になる見込みだという。
町で唯一のサッカー人として広く認められていた彼は、2010年ワールドカップの南アフリカ開催決定で、「なにかをしたい」と考えたジョージ市にとっては最高の相談役となった。ウィルさんも、どんなチームに働きかけをすべきか、サッカーの練習場にはなにが必要かなど、さまざまなことをアドバイスしてきたという。そんな彼がジョージ市からキャンプ地コーディネーターを任されたのは、当然の流れだった。
日本代表チームの受け入れが本格化したのは今年に入ってから。まず取りかかったのが、練習場になる競技場の整備だった。
地元ラグビーチームの本拠地であるアウテニクア・パーク競技場の芝は、サッカーには向かないタイプだったため、3月上旬に全面張り替えを実施。加えて、冬場の雨に対応するため、水はけを良くするための装置も設置。そのおかげで、チームが滞在中に約1年半ぶりという大雨に見舞われたが、ピッチコンディションが崩れることはなかった。
「そのぐらいかな」と、日本代表を迎える準備の苦労を訊いたところ、「大したことはしていないよ」とウィルさんは笑った。
「本当のことを言うと、日本の誘致が決まった時、ちょっと地味な感じを受けたんだ。サッカー伝統国じゃないからね。でも、いまでは来てくれたのが日本で本当によかったと思っている。これほど気持ちよく仕事ができる人たちは他に知らないし、僕自身、とても楽しんで仕事ができた。選手もスタッフもチームの人たち、みんながとても楽しんでいる感じがしたし、ユーモアのセンスもあって、毎日顔を合わせるのが愉しみだった」と言う。
ある日、チームスタッフとの会話で、ウィルさんのスタッフに本田のファンがいることが話題になったという。すると、練習を終えた本田がその彼女のところに来て言葉を交わしたのだという。気さくでちゃめっ気のある選手やスタッフの対応に感心したと言う。
「僕のスタッフは数人いる運転手も含めて、みんなすっかり日本贔屓になったよ」と話し、日本がオランダに負けてキャンプ地に戻った時も、「僕らは彼らのことを信じていたから、『デンマークには絶対に勝てる』と、みんなでチームにぱっぱをかけたんだ。僕らの方が彼ら以上に前向きだったかな」と振り返る。
ウィルさんや彼のスタッフは、練習場の隣に設営されたメディアセンターで日本の試合を欠かさずに観戦して、熱心に応援を続けた。ウィルさんの10歳の息子のマシュー君は、チームが到着する前から写真入りの大会用チーム紹介本を入手して、選手の顔と名前とポジションなどを熱心にチェック。日本戦を見るのはもちろん、練習場にも毎日のように足を運び、今では熱烈な日本ファンになった。
それだけに、日本が当地を去ることを親子でとても悲しんだ。
ウィルさんは、「3週間なんてあっと言う間だね。最初は結構長いんだろうなと思っていたんだけど。最後はもっといてほしいと思ったし、別れるのがとてもさみしいし残念だ」と話した。
ウィルさん自身、南アフリカ滞在延長が切れるため、ワールドカップ終了後は英国に戻ることになっている。だが、今回、日本代表チームとキャンプ地コーディネーターとして関わった経験で、今後の進路が変わりそうだと言う。
「とてもいい経験になったから、この分野でなにかできないか探してみようと思うんだ。再来年はロンドン・オリンピックがあるから、また日本チームの手伝いができるかもね」。ウィルさんはそう言って微笑んだ。
Text by Kumi Kinohara