6月22日 ソエート(前篇)
私が初めて南アフリカに来たのは1990年の6月であった。この時の旅は新潟空港からハバロフスクに入り、そこからシベリア鉄道でモスクワを目指す。途中にイルクーツクからモンゴル・ウランバートルに立ち寄る。
2週間かけてモスクワに到着し、その後、東西の壁が解放されたベルリンを経由しパリに入る。そして90年ワールドカップが開催されていたイタリアに行き、初めて生ワールドカップを体験する。ローマで行われたイタリアの試合でスタンド中にたなびいているイタリアのナショナルフラッグの素晴らしさに驚愕し!ナポリでは、あのアフリカ旋風を巻き起こしたカメルーンの試合でキーパー・イギータをかわしてのロジェミラのゴールを見てアフリカの身体的特徴を生かした独特のサッカーにこれまた驚愕する。ワールドカップ期間中にイタリアを後にして空路南アフリカ・ヨハネスブルグに入ったのであった。
1990当時はまだアパルトヘイト制度があった。その中でソエート(SOUTH WESTAN TOWNSHIPの略・最大の黒人居住区)の孤児院を訪ねた。私はそこで施設の建物の壁に絵を描いてきた。10m×2mほどの壁画である。長旅の想い出をそこに描いた。自由に移動してきたその時の気持ちをそこに記してきた。
あれから20年経ち、今回はそれ以来の南アフリカである。南アフリカでワールドカップが開催されると決まった時にまず思ったのは、その孤児院を再び訪ねてみたいということであった。その願いをかなえようということで今日はソエートに行ってみることにした。しかし当時の資料とかが手元に残っていなく、地名も住所も分からない。400万人が今でも居住しているというソエートの中で果たして見つかるのだろうか?
ソエートに詳しいドライバーのデブホに案内してもらう。まずは彼の知っている孤児院に行ってみる。デブホも時々寄付をしている孤児院だということだ。私の目的を話すと。「名前がわかっていれば簡単だが、わからないとなると難しい」といいながら、カーナビで「Orphanage」と検索する。このソエート中にはたくさんの孤児院がある。車から今は使われなくなった発電所の壁に絵が書いてあるのが見えた。20年前にはあれはなかった。
広い幹線道路を下りて、ソエート地区に入ると風景は一変する。平屋の家が立ち並び、路地が網の目状にあり、道行く人々が目に付くようになる。
デブホが知っている孤児院に着くが、私の記憶の建物とはちょっと違っていた。建物の中を見るまでもなく、そこで他の20年前からある孤児院を紹介してもらう。デブホがそこへの道順を言葉でメモする。再び車に乗り込み、移動する。孤児院はOTHANDWENIというところらしい。移動しながら「老朽化した建物で今はもうないかも」などと弱気になる。
2つめの孤児院に着いた。
そこの外観にも記憶がピンとこない、なんか違うっぽいなあ、念のために中に入る。かわいらしい手作りの万国旗が軒先に飾ってある。ここではないな・・・。
建物が建て替えられたりしたのだろうか?しかし廊下に貼ってあったこの施設の20年間の記録写真の中には私が知っている風景はなかった。壁にはかわいらしい子どもの絵が貼ってあった。またまたそこで別な孤児院を紹介してもらう。デブホが同じように道順をメモする。再び車に乗り込み移動する。
「建物が残ってたとしても改装されて、絵が残っていないかも・・・・」とますます弱気になり、探すことをしなくているより、探してみることが大事だよななどと自分にいいきかす。3つ目の施設はORLANDOというところにある。途中にガソリンスタンドに寄り、デブホが場所を聞いて確認する。はたして見つかるのだろうか?(つづく)
(文責:日比野克彦)
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